11月12日(火曜日)
小生が初めて<予報官>という名称(職名)を頂いたのは昭和60年4月でした。松山空港出張所の予報官に就いたのです。
当時の空港出張所には10名の職員がいて、その内予報官が4名居ました。
4日毎に仕事が回って来ます。所謂4交代制勤務だったのです。日勤・夜勤・非番(明け番)・休み(又は日勤)の様に、職員皆で交替して24時間体制の業務を続けるのです。
そうした職場に初めて赴任し<予報>を出す職種(職場)に変わったのですが、何せ始めて!先輩や同僚の助けを得てどうにか2年間の職務を全うしました。この職種では<航空機に対する>予報を出していたのです。
2年間の経験を経て、次の予報官は一般住民等に出す予報官に就きました。この職種が職務上言われる一般の<予報官>なのです。
この予報官もいろいろと勉強することが多く、この数年間の間に頭の毛が(一気に)かなり白くなりました。
他の人からは「かなり苦労したのですね!」と言われ、自分自身でもいろいろと勉強したことを覚えています。勿論予報だけの勉強ではありません。地域を知るため県内各所へ行き、各所の地形も頭の中に入れ込んだのです。
そうした日々の苦労が、頭の毛を白くしたのかも知れません。(桜54)
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